古代の海外との交流
日本を訪れる外国人の人数は、最近では年間3000万人を突破しそうな勢いです。
国際化という言葉が聞かれて久しいですが、今ではあちらこちらで、日本語以外の言葉が飛び交う光景も珍しくはなくなりました。
こうした海外の人たちとの交流は、今に始まったことではありません。
日本では、はるか昔の238年、邪馬台国の女王「卑弥呼」が当時の中国である「魏」の国に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」、すなわち「倭の国(当時の日本)の王」と認められたといいます。
「卑弥呼」はどうやって外国人とコミュニケーションをとっていたの?
すでに約1800年も前から、海外の国の人たちとの交流はあったのですが、当時コミュニケーションはどうしていたのでしょうか?
事前に、「魏」の国の言葉、今でいうところの中国語を勉強して行ったのでしょうか?
どうもそうではないようです。
当時にもすでに優秀な「通訳」がいたのです。
「卑弥呼」の時代よりも以前の一、二世紀に、すでに中国の王朝と交流があったことを考えると、当時の中国の言葉を理解できる「通訳」がすでに「邪馬台国」にいても不思議ではありません。
日本語から「魏」の言葉に通訳するのではなく、当時朝鮮半島で話されていた言葉を媒介語とした可能性もあります。
「卑弥呼」と「魏」の交流について記されている「魏志倭人伝」では、倭人について「今使譯所通三十國(現在、使訳が通じるところは三十国ある)」という記述があります。
しかし、この「使訳」が使者と通訳を意味するかは明らかではありません。
「最澄」と「空海」の場合は?
ちなみに、「卑弥呼」から時代を下ること約600年、天台宗の開祖である「最澄」は804年に遣唐使の船で中国に向けて出立していますが、このときに「通訳」として弟子の義真をともなっています。
真言宗を開いた「空海」も、「最澄」と同じ804年に遣唐使の船で中国に渡りましたが、「空海」は「通訳」に頼りませんでした。
留学僧に選ばれたときのために、前もって中国から渡来した僧について「唐」の言葉を学んでいたといいます。
「唐」で「通訳」に頼っていてはしっかり学べないと考えたのだとされています。
仏教や語学のみならず、土木技術や薬学などさまざまな分野で学んだ勉強熱心な「空海」らしいエピソードです。